鑑真和上展



国宝の「鑑真和上像」が北海道にやってくる!昨年この話を聞いてから随分と待った気が
する。場所は北海道立近代美術館で、2006.6.24(土)→8.20(日)と意外に長い期間の開催
である。
鑑真と言えば唐から12年間に6度の多難な渡航を乗り越えて来日し、日本の仏教に大いな
る影響を与え、また受戒などまだほとんど正確には伝えられていなかった当時の日本に律
の仏教を伝授した高僧である事と、自ら設立した「唐招提寺」が広く知られている。
私の唐招提寺との出会いは、井上靖の小説「天平の甍(いらか)」から始まる。

天平の甍は、荒れ狂う大海を越えて唐の国に仏教留学した若い層たちが20年の放浪の果
てに、道半ばにして死んでいった者や永住してしまった者がいたなかで、ただ一人鑑真らを
伴って故国の土を踏んだ僧の話である。


唐招提寺 金堂
2002年の11月に世界遺産に登録(1998年)された唐招提寺を訪れたときは、台風による破
損修理のために金堂は見ることができず、未だに修理中である(2010年完成予定)。
もちろん御影堂に安置されていて、年一回の特別開帳以外は拝観できない国宝・鑑真和
上像は塀の外からその姿を想像するのみであった。
鑑真和上像は日本最古の肖像彫刻で、肖像彫刻の傑作とも言われる。鑑真の晩年、弟子
の一人が唐招提寺内の講堂の梁が折れて崩れてしまう夢に鑑真の死期を悟り像をつくら
せたという。
左右非対称の顔、まつ毛の一本一本まで正確に彫ってあることや、鑑真の座り癖までも忠
実に再現してあり、その柔和な表情から鑑真の人柄まで読取れるようである。


今回の札幌公開は「唐招提寺金堂平成の大改修」を記念しての催しで、唐時代の影響を強く受けた天平時代の仏教
美術を知ることで、唐招提寺の歴史的な重要性を知ることが目的である。
入場の際に一応聞いてみた「ビデオ撮影もダメですか?」・・・「はい!」想定内だったが少々がっかりした。
会場に入って、初めに大きな仏像が目に飛び込んできた。
四天王立像の「多聞天」と「広目天」はいずれも国宝で、大きさが186〜188cmの割りに大きく感じる。
一部は乾漆を盛って整えられているが一木造により彫り上げられていて、どちらも太づくりでたっぷりしたモデリングだ。体の動きは後の時代のものに比べると少ないのは仕方がないだろう。

会場受付
残念なことに、梵天・帝釈天・四天王立像と護法神6躯のうちのこの2躯が札幌入りしているだけで、一種の完成された
美しさだと評されている「梵天」と「帝釈天」の展示はなかった。

        
           多聞天                  勅額                   広目天

この2躯の間には孝謙天皇直筆と言われる「孝謙天皇勅額」が大きな文字で「唐招提寺」と彫られていた。
どの展示物にもわかりやすい解説がされていたし、有料となるがボイスレコーダーによる解説も用意されていた。


次の展示物は絵画・書跡で、「両界曼荼羅・法華曼荼羅」(重要文化財)はまだ色彩や構図もはっきりしていたが、「十
六羅漢像・大威明王像」(いずれも重要文化財)は、ほとんどみえなかったのが本音である。特に十六羅漢像は前期展
示物の8像だが、どんなに近づいても目を凝らしてもなんとなく見えた程度だった。
唐招提寺の所蔵する写経は多く、特に鎌倉時代には唐招提寺復興の覚盛上人(かくじょうしょうにん)が写した写経は
多数で、その願いは「戒律復興」「仏法興隆」「衆生利益」といった願いの特別なものだったと考えられている。
なかでも鑑真和上がもたらしたと考えられている「四分律行事鈔」は、律を学ぶ者の必読書であるそうだ。「戒律伝来
記」は鑑真和上により唐から伝わった戒律が日本に伝わるまでの経緯が記されており、現存する唯一の写本である。
写経本はいずれも小さな文字が規則正しく書かれており、中には黒地に金文字の美しいものもあっ


東征伝絵巻
重要文化財の「東征伝絵巻」は鑑真たちの艱難辛苦の旅をつぶさに描いた伝記絵で、鎌倉時代後期に成立した。スト
ーリーはまことに劇的で、奇瑞譚を交えて起伏に富んでいる。
巻末に銘文があって絵は画工蓮行(れんぎょう)の手になることが知られるが、残念ながらこの絵巻のほかには画業が
知られていない。しかし、達者な描線からは蓮行の画工としての実力がわかり、見返しに施入銘と識語があって、永仁
6年(1298)、鎌倉の極楽寺を開いた忍性(にんしょう)が発願し、唐招提寺に贈ったことがわかる。
祖師・鑑真和上の志に思いを馳せて絵巻の制作を思い立ったのであろう。
実際に見てみると、予想していたよりも色鮮やかで見るだけで鑑真たちの苦労を伺い知る事ができる作品だった。


奈良の唐招提寺を訪れたときに新宝蔵という1970年に完成した鉄筋コンクリートの収蔵庫があり、例年春と秋に期日
を限って公開されていた。この新宝蔵は金堂や講堂にあった多数の木彫仏群が収蔵され、一部が展示されていたの
で、見覚えのある仏像が多数展示されていた。

如来形立像
なかでも印象的だった「如来形立像」は頭部と両手先が大きく欠けていて、普通であれば顔がない仏像など記憶に残りにくいはずなのだが、この仏像には際立った特徴があったのである。
重要文化財であるこの如来形立像は平安時代のもので、あたかも着衣が密着しているかのごとくアウトラインが実に美しく、重厚で唐風な他の仏像と比べてもスマートなこの仏像は唐風の造形が一段落してから和風化が進んだ9世紀頃のものと考えられている。
しかし、私など日本の仏像ばかりみている者には、これでも充分グラマラスにみえる。
新宝蔵で見たときに、その印象が強かった仏像の一つが「衆宝王菩薩立像」と「獅子吼(ししく)菩薩立像」で、いずれも鼻が欠け落ちて腕もない。
        
獅子吼菩薩立像 衆宝王菩薩立像 薬師如来立像  
おそらく、印象が強かったのは欠け落ちた破損部分のせいばかりではなく、その厳しい表情や引き締まって豊かなモデリングからも唐風の特色が強い唐招提寺ならではの仏像だったからだと思われる。
だがこの2体は、今の像名が定かではないらしく、衆宝王は不空羂索(けんじゃく)観音だったとも言われていることや、獅子吼像も額に眼の跡があることなどからはっきりしたことはわかってはいないようだ。
重要文化財の「薬師如来立像」は唐招提寺ならではの唐の影響を受けた像として知られている。
正面の腰下中央部にあるU字型を重ねたひだと、その両側に広がる波形の意匠は写実的というよりも装飾的で美しくまとまっていいて、これが体部のモデリングを強調するのに役立っていることに注目されている。
これは唐代の大理石の石彫に多くみられることから、この作者の手本となる像もこのあたりにありそうである。
そして、これがまた唐招提寺の仏像の特色でもあるのだ。

展示物の中には仏像の頭部だけが残っている奇妙ともいえる展示品もある。中には高さ60cm(記憶は定かではない)もある大きな仏頭はそれだけであるために、尚のこと神秘的でもある。


薬師如来立像 →
国宝「金亀舎利塔」は鑑真和上が来日した際に如来肉舎利三千粒を納めて運ばれたと「東征伝」にある。

金亀舎利塔
仏陀の遺骨である舎利は「彩糸花網」に包まれ、この内部に保存されていたそうだ
が、現在は別に保存されているらしい。彩糸花網は一部破損もあるが金亀舎利塔
とは別に陳列されていて細かな細工をみることができた。彩糸花網は唐代のものと
考えられているが、金亀舎利塔は繊細な意匠と細かく見事な作技からして平安時
代後期の日本での作品だといわれている。

彩糸花網
ここで鑑真和上について軽くおさらいして
おくと、688年唐の揚州に生まれ、父と参
詣した揚州大雲寺で見た仏像にひかれ
て14歳で出家した。
その後は長安・洛陽で律の勉学に励み、
戒律の師僧としては江南一として中国仏
教界にその名を馳せた。
そして、日本からの留学僧の中でも勉学
に励み、ある程度の地位にあった普照の
強い要請を受けて来日を志したのは55
歳のときだった。
その後は先に解説したとおりだが、請願
された日本では東大寺において天皇・皇
后以下400人余りに戒を授け、受戒・伝
律はすべてを鑑真に任せることとなっ
た。
こうして日本仏教界の戒律の乱れが正されることとなったのである。しかし、それも長くは続かず、やがて鑑真を煙たく
思う者たちから追われるように日本仏教界から去ることになり、唐招提寺を創建した。
唐招提寺は律宗を学ぼうとするものは広く受け入れ、律宗の研究道場として故新田部親王の旧邸を授けられたのが
始まりである。
境内には金堂、講堂、宝蔵、鼓楼(いずれも国宝)をはじめとする伽藍が立ち並んでいるが、これらは朝廷や有力者などの寄進により徐々に整えられていったもので、現在でも創建時の姿を伺い知ることができる。中でも、南大門をくぐって正面に佇む金堂は、奈良時代に建立された金堂としての唯一の遺構であり、その堂々たる姿と静謐(せいひつ)さをたたえた美しさが多くの人々を魅了している。

さて、実際に見た鑑真和上像だが、照明が極端に暗いことと近づける距離が3m程度なのでまつ毛までは確認できなかったが、当時のままと思われる衣の色が鮮やかに見えた。
さらに、四方ガラスケースに納められているので背後まで見ることができ、衣が正面同様にたわんでいる部分などは、これが木製だろうかと思ってしまうほど美しい。
瞑目して禅定印を結んでいる像の落ち着きは失明してしまった和上であるから当たり前かもしれないが、あたかも静かに俗世を離れ旅立っていくその瞬間を捉えたようにもみえる。
それにしても和上の骨太で頑強な体格は実話を考えると不自然に思えてしまうほどであるが、和上が成し遂げてきた事跡にみる不撓不屈の精神はこの体にして成しえられたことと思われる。
鑑真和上像の印象が強すぎたせいかこの一画の展示物はあまり憶えていない。

唐招提寺写真集より
5箇所ほどの展示室で今回の鑑真和上展をすべて見たが、やはり鑑真和上像そのものが強烈な印象を残して会場を
後にした。

御影堂
     若葉して おん目のしずく ぬぐはばや

かつて唐招提寺の開山堂に鑑真和上像を拝したときの松尾芭蕉の風懐である。唐招提寺の印象を表したものではこれ以上のものはないといわれている。
苦難の渡航や失明、その波乱に飛んだ生涯は悲しさを秘めているものだが、不思議なことに瞑目の和上像といいこの寺の伽藍のたたずまいといい、悲壮なものは全く感じられない。むしろ新鮮な明るいイメージがある。
芭蕉はこれを一句で見事にとらえているのである。
和上が東大寺を去ってから唐招提寺をひらき、律院を設けたのが天平宝字3年(759年)、来日から6年後のことであった。




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