空海マンダラ展


  空海マンダラ展 2006年9月9日〜10月22日 北海道立旭川美術館  2007年4月24日〜6月3日 北海道立近代美術館


8月の弘法大師展の興奮も冷めぬうちに、9月の「空海マンダラ展」が旭川市で開催された。高野山真言宗の最高位で
ある管長と金剛峯寺の座主(ざす)を務める旭川市内の金峰寺の住職の力によってこの展覧会が実現したと聞いた
が、本当のところは知らない。
旭川市の中心部に常盤(ときわ)公園という市民の憩いの場があり、その中に道立旭川美術館が建っている。無料駐
車場の待ち時間は日曜のせいか15分ほどだったが、全く苦にならない。
正面入口から期待と興奮を抑えながら歩いていると、高野山霊宝館の副館長の姿を発見!話しかけてみようか迷った
が、思い切って話しかけてみたところ快くお話を聞くことができた。この日午後からの講演会のために来道していたそう
で、テレビなどで観るそのままの優しい人だった。


■高野山とは

 紀伊半島の北部、標高800mを超える山々が幾重にも連なり、深い山の中に忽然と現れる街並みが高野山である。
金剛峯寺を中心に120もの寺院が建ち並ぶ高野山は真言密教の根本道場として、国宝25件・重要文化財180件をはじ
め仏教美術の宝庫として知られている。

展覧会場入口で受付をして中へ入ると、正面のガラスケースに弘法大師空海の木像があった。実物は初めてだが、テ
レビや写真などで何度も目にしている像で、空海の特徴をよく表しているといわれている。
■弘法大師空海について

 空海は774年、讃岐の国の豪族の家に生まれ、官吏育成のための大学に進む出世コースを歩んでいたが、学業半ばにして大学を辞めて真理を求めて各地の山々に入り修行に明け暮れていた。
そして青年空海は人間存在の根源的な意義を問い、その答えを見出すために生涯を捧げる決意をして、24歳のときに仏門に入るべく宣言書ともいえる聾瞽指帰(ろうこしいき)を書いて、反対する周囲の人たちを説得したという。
以後、各地で修行中には明けの明星が口に飛び込んできた、などの数々の神秘体験をしたという。
31歳のときには一留学僧として、宇宙的な最新の教えである密教を学ぶために唐へ渡り、長安にて本格的な密教を学び始めると、5本の筆を同時に操るなどの伝説を生むほどに抜きん出た才能を現し、2千人もの門人の中でただ一人、僅か2年で密教の奥義を受け継ぎ様々な法具を賜って帰国した。
当時最先端の密教を国内にもたらした空海は、日本でも大きな地位を築きあげることになった。
しかし、大自然の中で深い瞑想を行う場として高野山を深く愛した空
海は、真言密教の根本道場としてこの地に寺院の建立を始めたが、建立事業は意に反して進捗ははかばかしくはな
かった。
空海は完成を見ずして835年3月21日、多くの弟子たちに見守られるなか入定(生涯を閉て永遠の禅定)した。これによ
って弘法大師信仰がまたたくまに全国に広まり、今も高野山の霊窟にあって人々を救済していると信じられている。
■聾瞽指帰(ろうこしいき) 国宝

 上下巻あわせて20mに及ぶ大作。
また、高野山三大秘法のなかでも最も知られた作品である。
書の芸術としても高く評価されていて、力強く躍動する文字、当時流行していた中国の書風を吸収しつつさらに自在な筆使いをみせている。
一行の中で一文字だけを大きく書く筆法から、空海の遊び心が伺える。
聾瞽指帰には儒教・道教・仏教それぞれの教えを代表する3人の人物が登場するが、その中で仏教を説く「仮名乞児(けみょうこつじ)」は、若き空海本人がモデルといわれている。 
仮名乞児は儒教と道教を認めながらも、仏教こそが完全な教えだと主張するのは、儒教と道教には来世という考えが欠けていて、仏教の尊者は一切に通じている「尊円寂一切通」この言葉が仏教の道に生きるという若き空海の強い意思を現すものであり、弘法大師空海と高野山の原点である。
今回の展示では、残念ながら上巻巻頭と下巻巻末の一部のみの公開だったために、一行だけ大きく書く筆法の多くを見ることができなかったが、高野山の三大秘宝と称される、この聾瞽指帰が入口の一番近い場所に展示されていた。
ガラスケースに入った展示物をじっくりと見ていくうちに、想像以上に小さく感じた高野山三大秘宝の二点目がそこにあ
った。
■諸尊仏龕(しょそんぶつがん) 国宝

 空海が密教の正統な後継者となった証となる宝物がこの諸尊仏龕で、一本の白檀を3つに割って作られた高さ僅か23cmの厨子である。
中には釈迦如来を中心に菩薩や十大弟子が囲む25体の仏が精密に彫られている。僅か7cmの釈迦如来には幾重にも重なるヒダや紅を差す口元など、巧の技がみてとれる。
釈迦の背後を囲む十大弟子や諸菩薩など、仏たちが集う浄土の世界を表現したものである。
さらに、仏たちの足元には天女などが透かし彫りで刻まれていて、天女は僅か2cm四方のなかに彫られている。
この諸尊仏龕は7世紀頃、インドの影響を受けて宋で作られたものとされる。

ただし、展示されていた照明が暗かったために細部までは鑑賞できなかったので、今回特別展のために発刊された北海道新聞社の記念誌により、その詳細を知ることができた。 
■金銅三鈷杵(さんこしょ)

 金剛峯寺の三大秘宝の最後は三鈷杵であるが、秘宝中の秘宝であり「門外不出」とされる秘宝のために今回の展覧会には、もちろん出品されていなかった。
三鈷杵は密教法具のひとつで、儀式などに用いられる。空海が唐から請来した法具に倣って日本でつくられたもので、重要文化財に指定されている。
金剛峯寺に安置されている空海請来の飛行三鈷杵は、曲がった爪の部分が一箇所折れていたと記憶している。 



ここで、密教についてもっとわかりやすく解説してみよう。

★マンダラの世界

密教の宇宙観は、無限に広がる大宇宙を自然界の「地」「水」「火」「風」「空」五つの要素で構成されると考えてきた。
空海は、そこに人間の精神を意味する「識」を加え「六大要素」としたのである。物質と精神は渾然一体であり、生きとし
生けるものは全て大いなる宇宙とひとつである、という壮大な宇宙観を創りあげたのである。
この宇宙観は独自の美術をもたらし、それが曼荼羅で、空海は異なった原理を持つ二つの曼荼羅(両界)で宇宙の真
理を伝えようとしたのである。
■金剛界曼荼羅
 九の仏の世界が、悟りへの道を表す。

■胎蔵界曼荼羅

 全ての存在を包み込む宇宙の原理を表す。
中央には大日如来、万物を育む太陽を象徴し、宇宙生命を表す。
その周りには、蓮の葉に乗った八つの仏が囲み、知恵を表す。
普賢菩薩や、衆生を救う阿弥陀如来など、仏たちは大日如来の徳の一部を受け持つ。
更に、この仏たちの周りを様々な世界が幾重にも取り囲むのである。
曼荼羅は、あらゆる存在が個性を持ちながら世界を構築することを表している。
外側には、仏教以外のエキゾチックなインドのヒンズー教の神々など、人間を食らう餓鬼の姿まであるのである。
曼荼羅はこうした世界まで包み込んでいる。
微笑みかける菩薩は仏の慈悲を表し、云無(うんむ)の表情の明王たちは仏の世界を守っている。中には四方をにらみ、炎で煩悩を焼き尽くす不動明王もいる。
曼荼羅は、怒りをも修行の敵を倒す力として取り込んでいる。
更に門をくぐり入ると、仏教を生んだ釈迦の姿もあり、その上には知

金剛界曼荼羅図(16〜17世紀)
恵と生命の象徴である蓮の花があり、その上に阿弥陀如来や文殊菩薩など八つの仏が集っている。
全てのものは、本来、内なる仏を持つといい、それを磨けば悟りの花を咲かせることができることを表している。
頂点に君臨する真言密教の根本仏が大日如来で、大日如来が胎蔵界曼荼羅の隅々まで照らし、全ての存在が大日
如来の輝きを受けて自ら光を放っていることを表している。 

       
胎蔵界曼荼羅図(16〜17世紀                胎蔵界曼荼羅図・部分(12世紀

■大日如来坐像

 平安時代につくられた高野山に残る最も古い彫刻である。
金箔の輝きは大日如来の力を現し、手は「智拳印」を結び森羅万象を育むエネルギーを象徴している。その静かな表情に限りない力を感じさせる、真言密教の根本仏の姿である。
金剛峯寺伽藍西塔の元本尊で、金剛界の大日如来である。
887年に創建された西塔の当初像と考えられていて、高野山における数少ない平安初期像として大変貴重である。

大日如来坐像

■金剛峯寺不動堂 国宝

 金剛峯寺不動堂は、八大童子立像及び不動明王が収められている建物なので、ここで少し解説しておこう。
鳥羽天皇の娘八条院が1197年に建てた仏堂で、八条院は弘法大師を深く信仰し、当時最

金剛峯寺不動堂
高の仏師だった運慶・快慶につくらせたのが、この仏堂の中に今も残っている。
しかし、実際は鎌倉時代後期のものと考えられているが、平安時代特有の高野山では最も古い仏堂である。
全体に低層で平安時代の様式で建てられていて、屋根は入母屋造りだが木屋根と庇(ひさし)が角度をもってぶつかる
縋破風(すがるはふ)造りという複雑な造りであるために、小作りで優美な仏堂となっている。


■八大童子像 国宝
 不動堂の本尊である不動明王に仕える童子たちの像が、八大童子立像である。
 ●制多伽童子(せいたかどうじ)
凛々しく純真な面持ちの制多伽(せいたか)童子。
八大童子の中でも最も優れたこの像は、運慶の作といわれている。
本来、制多伽童子は怒りの心で満ちているといわれているが、運慶は子供らしいはつらつとした風貌

制多伽童子

矜羯羅(こんがら)童子
を与えることによって新しい童子像をつくり出したのである。

制多伽童子は、不思議な人を引き付ける強い印象と、動き出
さんばかりの生き生きとした表情で、私がもっとも好きな像で
あり、実物を見た時にはしばらくその場を離れることができな
かった。

 ●恵光童子(えこうどうじ)

恵みの光を持って一切を照らしだす、という恵光童子は快慶の作といわれている。

恵光童子の鋭い視線は瞳の縁を赤く縁取ることによって、童子らしい面立ちの中に不動明王の使者としての威厳を現している。

恵光童子

清浄比丘(しょう
じょうびく)童子
まなじりを決して正面を見据える表情からは、全てのものに徳を教え諭そうという固い決意が伺える。
 ふくよかな顔の肉付きと豊かな表情、八体全ての像には動感溢れる造形から、八大立像は写実彫刻の頂点を成す傑作といわれている。
八条院は最高仏師の最高の成果を奉納することで、弘法大師への厚い信仰を示そうとしたのである。
権力者たちは、弘法大師との厚い縁(えにし)を結ぶために、積極的に宝物を高野山に納めていき、その流れは戦国
時代より近世及ぶ。

   
   恵喜(えき)童子  鳥倶婆言我(うぐばが)童子  指徳(しとく)童子         阿耨達(あのくた)童子
               ※ 「言我」で一文字

テレビや写真で幾度となくみていた八大童子立像をこの目で見ることができる感激は、その像を前にして、驚きから不
思議な安らぎへと変わり、時には恐怖すら感じられる。
運慶・快慶の力量を感ぜずにはいられない、何れ劣らぬ童子八体は、檜の寄木造で玉眼をはめ込み、全身に華やか
な彩色が施されていることが現在でも薄っすらとその色使いを見てとれる。
今回の展示物資料では、全てが運慶の作とされているが、快慶の作も混ざっている説も否定できないので、私は運慶・
快慶作としている。


 今回の展示には数多くの絵画や書の出品があった。なかでも印象的なものを紹介する。
■金銀字一切経 国宝
 豊臣秀吉が納めた装飾経。
深い紺色の紙に華やかな金銀の文字が交互に記されている。
このお経は平安時代半ば、繁栄を極めた奥州・藤原氏の初代清衡によって作られた。
金銀をふんだんに使って作られた華麗な経典は、実に4.296巻が高野山に奉納された。
各巻の巻頭には見返絵が描かれており、私が今回会場で見たものはすでに記憶にないが、以前NHKの「国宝探訪」で観た見返絵は、楽しげに水浴び

金銀字一切経
をする像の姿、童子たちに説法をする釈迦の様子、他にも人々が田植をする風景など、様々な題材が輝く金銀によっ
て描かれていた。

1594年、高野山で開かれた連歌会の記録が「連歌懐紙」に残されている。会の主宰は太閤・豊臣秀吉で、他にも前田
利家や徳川家康など、配下の錚々(そうそう)たる武将が名を連ねている。
その名だたる参加者の中で、秀吉の次に歌を詠んだ人物は「興山」という高野山の僧だった。
興山上人応其(おうご)の名が連歌懐紙にある、これによっても秀吉の信頼をうかがい知る事ができる。
応其は、高野山のどの勢力にも属さず、山内の勢力をまとめあげる人望と実力を兼ね備えていた。
応其と秀吉の出会いは、この連歌会の10年前にさかのぼり、1585年、紀州は秀吉の紀州攻めによって戦火に包まれた。
そして、高野山に向けられて兵は降伏勧告を送りつけ、その中には「・・・はむかった比叡山や根来寺(ねごろじ)は破滅した。そのことをわきまえるがよい・・・」と迫っていたのである。
この時、高野山を代表して交渉に当たっていたのが応其だった。
意を尽くして説得を続ける応其に、秀吉は深い感銘を受けたという。そして秀吉は、応其に免じて攻撃を中止し、その後、二人の厚い交友が始まるのである。
秀吉は、この応其を通じて高野山に数多くの宝物を贈るようになる。
秀吉が何故数多くの貴重な宝物を贈るようになったのか?それは次のような理由があるようだ。
一つは、秀吉が信頼する応其がいること。
そして最大の理由として考えられるのは、秀吉の時代から江戸時代初期にかけて高野山は天下の菩提所と自称して
いた。
また、自他共に認められる存在になって、全国に遺されている重要な宝物を収めていくようになる、ということは、高野
山が永遠の菩提所、祈りの場であるという認識となる。
弘法大師の眠る奥の院には、40万基に及ぶ墓石が立ち並び、その一角には豊臣家の墓石も立っている。


 高野山の復興

高野山は、空海の死後、200年以上に渡って荒廃した時期を迎えていた。
平安中期に高野山の復興が始まるのだが、復興にあたったのは興福寺などから来た他宗派の僧たちであった。
その復興の足跡ともいえる宝物を最後に紹介したい。

■仏涅槃図(ぶつねはんず) 国宝
 2.7m四方の巨大な絵画は、日本の仏画の最高傑作といわれている。
描かれているのは「釈迦の死」という劇的なシーンである。
復興に当たった僧たちは、密教の教主・大日如来ではなく、仏教徒なら誰でも信仰する釈迦如来を描かせた。
釈迦の枕元では、透明な光背を背負った菩薩たちが見守っている。僅かに首を傾げる菩薩には、静かに悲しみに耐えている姿が見てとれ、ある種の悟りを得て静かにその死を見守っている。
また、画面右上には釈迦の臨終を聞き、天上から駆けつけた釈迦の生母・摩耶夫人の姿もある。
生母・摩耶の横にある、8本の沙羅双樹は、悲しみのあまり白い花をつけ、枝葉まで白くなっている。

仏涅槃図(全体)
この情景の中、釈迦の表情は眠るがごとくおだやかで、高い悟りの境地に入っていることが示されているようである。
画面の下では、獅子が仰向けになって嘆き、金剛力士も涙に眩れている。彼らも釈迦の死に衝撃を受けているのだろ
う。慟哭し、嗚咽する弟子たち、仏涅槃図の最も優れた表現は、この群像の多彩な悲しみの描写にあるといわれてい
る。

金剛力士と獅子
嘆き悲しむ人たちの中に迦留陀夷(かるだい)と劫賓那(こうひんな)という弟子がいる。
二人は、特に法華経に登場する人だが、高野山復興を進めた法華経を学ぶ僧が、あえてこの仏涅槃図に二人の人物を描かせたと考えられている。
僧たちはこの仏涅槃図を本尊として、釈迦の命日に盛大な儀式であ
る涅槃会(ねはんえ)を開き、復興のための資金や人材を集めたのである。
仏涅槃図は高野山復興の証ともなる宝物なのだが、今回の旭川展には出品されておらず、札幌展前期のみ出品が予
定されている。


 今回の展示物は、@ 弘法大師空海の生涯、A 密教のかたち、B 信仰の広がり、に分けて100点を超える膨大な数となっている。
弘法大師や密教、そして高野山について、何も知らないうえに高野山を訪れたこともない私だったが、天下の総菩提所と呼ばれたほどの繁栄を今に残しているのは、正にこの宝物が語る歴史的な由縁に他ならず、深く知ることによって実に深くて面白い様々な史実があることを知った。
美術、或いは芸術的な観点からの宝物の鑑賞のみならず、当時の人々の厚い信仰心や願いが伝わってくるようだ。
今回展示会場にて販売されている書籍の中で、私が個人的におすすめする一冊は「空海マンダラ・弘法大師と高野山」 井筒信隆 監修 北海道新聞社 発行である。
展示会出品物全てをカラー写真で解説されている。



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