北海道慰霊碑・ひめゆりの塔など



  ● 北霊碑〜平和の礎

11月25日 この日も出発は9時だったのでのんびりと6時40分に起きたが、5日目ともなると疲れが出たのか目覚しが
起こしてくれたのである。
レースカーテンだけで寝ていたが、明るさは目覚しにならないほど暗く、ラナイに出てみると明るくなりかけた街の明かり
はまだまだ強い光に見える。
コーヒーを入れた頃には妻も目覚め、私はシャワーを浴びる。7時のニュースを見ながら着替えを済ませて、7時半に
は部屋を出てエレベータを1階で降りた。
           
             カサ・ヴェルデ                           ホテル前
地下1階にある「カサ・ヴェルデ」は和洋バイキングの朝食会場で、時間的にも混雑していたが席は充分ありそうだ。
種類は少ないが味には満足して朝食会場を出て、時間もあったのでホテルの外へ散歩に出てみた。外は暑くも寒くも
ない気温で、4日間の旅の疲れが少しだけ溜まっているのか足が重いような気もする。
ホテルの入口に戻ると私達の東洋バスがすでに停まっていて、出発時間にはまだ45分もあった。
部屋に戻り出発までの時間をのんびり過ごし、9時になる10分前には部屋を出てチェックアウトを済ませた。
9時にバスは動き出し、いつものように添乗員さんがこの日の予定を説明してから、ガイドさんにマイクが移る。
最初の目的地は「北海道慰霊碑」で、ガイドさんの詳しい説明を聞きながら街の中を抜けて喜屋武(きゃん)岬方面へ
進むと、サトウキビ畑が多く見られる平坦ではない平原のような場所を進み、糸満市内の米須霊域内へ入る。
北海道慰霊碑は「北霊碑」が正式の慰霊碑名で、当然のことながら沖縄戦や南方戦線で命を落とした北海道出身戦没
者の碑である。
私は恥ずかしながら、沖縄ならびに南方戦線で国に殉じられた人々のなかに、多くの北海道出身者がいたとは考えてもみなかったことで、まして各都道府県ごとに沖縄各地に慰霊碑があろうとは思っていなかった。
北霊碑は昭和29年に全国に先駆けて建立されたもので、沖縄を訪れる北海道民が必ず訪れる聖碑となり、遺族の心のよりどころとなっていたのだが、碑材のいたみも顕著となってきていたために、平成8年に改修されて現在に至る。
駐車場もトイレも完備した北霊碑付近には、詳しくは憶えていないが他の府県の慰霊碑もあり、献花用の花の販売所もあった。
バスを下りると、いち早くバスを下りた初老のツアー参加客が花束

北霊碑
を買い求め、北霊碑に直行して手を合わせていた姿は、戦争を知らない私達にも数十年前に起きていた悲惨な戦いを
想像させた。
参拝後、バスが出発すると「渋滞などもなく、予定よりも順調に進んでいますので、予定にはありませんが・・・」と添乗員
さんから平和記念公園へ向かうことを聞く。旅行前には、有名な平和記念公園よりも北海道慰霊碑か、と思っていたの
で願ってもないことだった。もちろん北霊碑を参拝したこの時は、そんな考えは変わってしまっていたが。
バスは10分程度で「平和記念公園」に到着。青空が広がっている好天のせいと、広い公園内は日陰がほとんどなかっ
たために暑いくらいだった。
      
                平和祈念塔                         式典広場
バスを降りるとすぐにおばさんやおばあさんが花束を持って「千円です。花を供えてお祈りしましょうね」そう言って寄っ
てくるが、先ほどの北霊碑では300円、確かに千円というだけあってカラフルだが・・・。
駐車場からしばらく歩くと、左の小高いところに平和祈念塔、その右奥には平和祈念資料館の屋根が見え、右には平
和祈念式典が行われるテレビで目にしたことのある式典広場、その奥に平和の丘が見えた。
そして「平和の礎(いしじ)」に着いた。
        
          礎から見える記念塔と資料館                    北海道の礎
平和の礎とは、「平和のこころ」を広く内外に述べ伝え、世界の恒久平和の確立に寄与することを願い、国籍・宗教を問
わず、沖縄戦(その期間は、米軍が慶良間諸島に上陸した1945年3月26日から沖縄守備軍が降伏文書に調印した同
年9月7日まで)で亡くなった23万余(沖縄県民の4人に1人)のすべての人々に追悼の意を表す氏名を刻んでいる。
沖縄県糸満(いとまん)市摩文仁(まぶに)平和祈念公園内に設置された記念碑で、1995年6月に除幕式が行なわれ
た。
犠牲者の数は2001年6月現在238,161人。内、沖縄出身者148,341、県外75,325人、アメリカ14,007人、イギリス82人、
台湾28人、韓国296人、朝鮮民主主義人民共和国82人。また、女性は54,997人でほとんどが沖縄県の犠牲者であり、
沖縄戦での住民の犠牲者の多さを証明している。
2002年も韓国の13人を含む252人の名前が、また2003年に新たに164人(沖縄県内69人、県外77人、海外18人)が、
2006年度に588人が追加刻銘され、2006年6月23日現在、総刻銘者数は24万383人となったそうである。
碑は国別、都道府県別に分かれていて、北海道の私達の小さな町からも沖縄戦の犠牲者が存在することに驚き、今
回のツアー参加者や添乗員さんの中にも親族知人に少なからず犠牲者がいると聞いた。

       
               平和の火                        すぐ下には海が見える
刻まれた名前は消されているところもあり、その理由はわからないが、1995年の完成当時から6年の間に4千人近くが
刻まれ、それでも刻銘碑には、なお1万人以上の名前を刻むことができるスペースがあるという。
碑は海に近い「平和の火」に向かって円形コロシアムのように建てられ」ていて、平和の火の周りには水が流れてい
る。そして海は、すぐそこの断崖の下に青く美しく見えていた。
平和祈念資料館にも行きたいし、この公園内には他にもまだ見ておきたい施設が多くあり、いつかまた来なければなら
ないと思った。
夏のような暑さのなか、ようやくバスに戻ってみると、日に照らされていた座席が熱くなっていたので反対側に移動す
る。

出発したバスは、ここからすぐ近くという「琉球ガラス村」へと向かった。途中、ガラス村の後に行く「ひめゆりの塔」の横
を通り、数分で琉球ガラス村に着いた。
名前の通り、ここはガラス細工の大きな工房で、中央にある巨大な煙突が印象的だ。小さな売店の中を抜けると広い
ガラス工房があり、中央の太い煙突下には大きな炉のなかにオレンジ色の炎が見えていた。

         

ガラスの溶解炉は円形の工房の隅に5箇所ほど配されていて、そこから出た熱は中央の煙突につながっている。
中には30人ほどの職人が働いていて、見ているだけでも暑そうだが、それぞれの持ち場でマイペースにガラス製品を
作っていた。一部では体験教室もあるのか、職人の指導を受けながら鉄パイプの先に付いているガラスに空気を送っ
て膨らませている様子が見られた。
しばらく工房を見学してからその奥にある土産品店に入った。
中はほとんどがガラス製品で、晩酌用のコップに適したものはないかと探したが見つからず、一点だけお土産を購入し
たところ、ガラスの箸置きをサービスしてくれた。
出口近くにある売店にブルーシールのアイスクリームが売られていたので、ガイドさんおすすめの紅芋ソフトクリームを食べてみた。これがなかなか濃厚なのにしつこくなくて、実に美味しかった。
沖縄には様々なアイスクリーム屋があるなかで、ブルーシールは昔
から沖縄の人々に愛されてきた味であり、32種類のアイスクリームが
あるそうだ。なぜ32種類あるかといえば、サーティワンアイスに対抗して一種類多いというが、本当のところは定かでは
ない。
バスに戻り出発前に工房からのプレゼントがあり、配られた小さな袋の中からは、あの箸置きがでてきた。
バスは来た道を引き返してひめゆりの塔近くにあるレストハウスの駐車場に停まった。
昼食会場となるこのレストランは、ひめゆりの塔を見て帰ってきた順に食べてくださいと添乗員さんから聞いたが、ソフ
トクリームを食べたのでさほどお腹は空いていなかった。
       
          ひめゆり入口付近                        献花台にたくさんの
ひめゆりの塔は目と鼻の先で、閑静な林の中にあった。たくさんの観光客が訪れていて、それぞれのガイドさんがあち
こちで解説をする中、全員で手を合わせてから詳しいお話を聞いた。

左は千羽鶴
  慰霊碑と献花台の間には当時の防空壕として使われていた洞穴が地下に続いていて、中までは見えないものの想像よりは狭くて平坦ではなかった。
ひめゆりの塔とは、第二次世界大戦末期の1945(昭和20)年の4月、沖縄に米軍が上陸して熾烈な地上戦が展開された。そんな中、当時沖縄にあった21の男女中等学校から生徒たちが動員され戦場に送られた。
女子学徒は15歳から19歳で、主に陸軍病院等で看護活動にあたり、男子学徒は14歳から19歳で、上級生は「鉄血勤皇隊」(物資輸送・橋の補修等)に、下級生は「逓信隊」(電線の修復・電報の配達等)に編成された。
当時、真和志村安里(現在の那覇市安里)にあった沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校からは、生徒222名、教師18名が南風原の沖縄陸軍病院に動員され、そのうち136名が戦場で命を落とした。 
両校から動員された生徒・教師たちを戦後、「ひめゆり学徒隊」と呼ぶようになり、終戦の翌年(1946年)の1月、米軍の
命令により旧真和志村(現在の那覇市真和志地区)の人々が糸満市米須に移動させられ、当時の真和志村の村長は
ひめゆり学徒の遺族でもあった金城和信氏だったので、真和志村民らは金城氏の呼びかけで遺骨の収集を始め、そ
れらの遺骨を納骨するために2月に「魂魄(こんぱく)の塔」を建立した。
これが戦後初の慰霊の塔となり、同年4月5日、真和志村民らは沖縄戦末期米軍のガス弾攻撃を受け、多くのひめゆり学徒や陸軍病院関係者が亡くなった伊原第三外科壕の上にも「ひめゆりの塔」を建立。建立から2日後の4月7日に第1回慰霊祭がとり行われ、学徒隊の引率教師だった仲宗根政善先生が「いはまくら かたくもあらむ やすらかに ねむれとぞいのる まなびのともは」のうたを霊前に捧げたのである。
9日には摩文仁に男子学徒を祀る「健児の塔」も建立し、魂魄の塔・ひめゆりの塔・健児の塔と合わせて平和を希求する3つの慰霊の塔となった。
沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校生徒222人による「ひめゆり部隊」が、看護活動を行っていた最後の場所、旧陸軍第3外科壕跡である。 

石碑の下に続く豪
第1外科壕は、県道を挟んだレストハウス側にあるとのこと。ここに部隊が移動した6月には医薬品や食糧も底をつい
ていて、6月18日には突如、軍より解散命令が下された。
この後、壕より脱出する直前に米軍のガス弾が打ち込まれ、兵士や学徒の多くが死亡、生還者はわずかであった。ひ
めゆりの塔は、この壕の上に建てられていて、壕の中は傾斜がきつく、この中で泥や雨、砲弾にさらされながら生活し
ていたとは、私たちの想像を絶するものがある。
生き残った者も、さらに荒崎海岸に追い込まれ自決したりした。ひめゆり部隊の犠牲者194人のうち、解散後の死者が
128人であることが示す通り、軍の無責任さが多くの犠牲者を生んだといえる。これは、次に入った希望者のみの「ひめ
ゆり平和祈念資料館」で聞いた話である。

ひめゆり平和祈念資料館
ひめゆり平和祈念資料館は時期的なものか修学旅行生などが多く、入口から大混雑していた。
中はもっとひどい混雑で、すし詰め状態の中を辛うじて展示品を観たり、所々にあったビデオモニターを観ながら進むと、大きなスクリーンで体験談を映している場所に出る。
ここでしばらくイスに座って観ていたが、昼食時間を過ぎていたことに気付き、急ぎほかの展示品をみてから外に出た。
レストランに入ると添乗員さんが待っていてくれて、すぐに昼食会場に案内された。
昼食はソーキソバに天ぷらともずくなどで、これまでインスタントでハズレばかりだったので、ソーキソバには期待していたのだが・・・不味い。添乗員さ 
んが今朝話していた3枚の(ソーキ)肉がのっていると言っていたのも、薄い豚肉とハム、かまぼこだった。
結局、今回の沖縄では美味しいソーキソバは食べることができなかった・・・まあ、ツアーだったので時間も自由になら
ず仕方ないと諦める。
食後は、再びひめゆりの塔に行き、ゆっくりと見ていると、ほかの観光客のガイドさんが話をしていたので一緒に聞いて
みると、沖縄訛の強いガイドさんだったので、違った意味での沖縄体験をした様な気がする。
改めてじっくりと豪の中を覗き込み、周囲を見て回ってから駐車場に戻った。

12時45分にバスは出発して、一路空港へ向かった。
市内に入ると添乗員さんが帰りの予定を詳しく案内しているうちに、バスは埋立でできているという那覇国際空港内に
入った。
空港が見えてくるとガイドさんは最後に一曲披露してくれて、空港3階のバス停に着いた。空港の中に各自が荷物を持って入ってから待ち時間が少々あって、旭川空港までの2枚づつの航空券を受け取り、全員を前にしての最後の添乗員さんの説明とお別れの言葉がある。
お別れと言っても羽田までは同じ飛行機だが、添乗員さんの仕事もなかなか大変だと他人事ながらも実感した5日間だった。
ここからは各自が搭乗受付を済ませて2階の搭乗口へ移動して、2階は広い土産物店などがあるので、ここで色々見て楽しんだ。
意外に広い館内を移動して羽田行きの搭乗口25番に移動し、ここで再           3階搭乗受付
びブルーシールの苺アイスクリームとさんぴん茶を買い、食べているうちに搭乗時間となった。
14時55分発羽田行きは大型の便で、座席は45のK/Jだったので随分後方になる。しかし、非常口が席の前にある前の
広い席だった。しかも、満席に近い混雑にもかかわらず、並んだ3席の隣は空席だったのでゆったりとできる。
しかし、なかなか動き出さないなあと思っていたところ「搭乗できなくなった乗客の荷物を降ろす作業に時間を要す
る・・・」というアナウンスがあり、予定時間を5分以上遅れての出発となった。

2階搭乗待合

座席から
ようやく機体が動き出し、タキシングを始めると僅か5日間だった沖縄も懐かしささえ感じてしまい寂しい気持ちになる。
離陸時間が近づくとCAさんが私達に向かって席に着くので、向かい合っているのはなんだか気恥ずかしい・・・。
強烈な加速とともに離陸して、右に旋回したので真
下には青い海が少しの間だけ見えて、それもすぐに雲の中に入って見えなくなってしまった。
飲物サービスはスープとりんごジュースで、機内で飲むスープがすっかりお気に入りとなってしまう。
シートを倒してウトウトしていると、機体が揺れていることに気付きシートベルト着用のランプも点いていた。「あと15分で
着陸しますので、揺れが大きくなる可能性も・・・」とアナウンスされたことで、いつの間にか随分と長い時間寝ていたこと
に気付いた。
17時15分羽田空港着陸、予定よりも10分ほど遅れたとのことで、乗客も停止したとたんに立ち上がって一刻も早く降りようとしている。
私達のツアーのなかにも函館空港へ乗り継ぐ人が一人いて、定時に着いても30分しかないので焦る気持ちはわかる。
17時20分、ようやく空港の中へ移動し、旭川空港の搭乗口は33番だったのでずいぶん歩かなければならず、多少余裕があったとはいえここで夕食を食べる暇はなさそうである。
ここで釧路空港へ向かう添乗員さんとツアーの人たちとお別れをして、私達は先に進むが、妻がトイレに寄っている間に笑顔で手を振 

遠ざかる那覇市内
りながら添乗員さんたちが私を抜き去って行った。
初日に寄った中央にある空弁工房に寄って、5色のいなり寿司詰め合せと味めぐり弁当を購入して先を急ぐ。
予想通り33番搭乗口は、1階に降りてからバスで飛行機まで移動だった。時間に余裕があったので、しばらくイスに座
って休んでから行くことにする。
旭川行きの乗客がいなくなった頃に搭乗口まで進むと、再び添乗員さんが現れて最後のお別れ、これで本当に最後である。
バスは他の乗客を待っている様子でなかなか発車せず、5分ほどしてから10人ほど慌しく乗車して動き出したが、2分もかからずに飛行機の横に停車した。
地上から直接タラップで乗るのも悪くないなあと思いながら、機体の写真を一枚撮って乗り込む。
座席は21のG/Hなので右の窓際で、日曜の最終便ということもあってほぼ満席のようだ。
17時50分の予定だったが、アナウンスで出発便が多く混雑しているので若
干遅れ気味とのこと・・・長いタキシングをしてから前方を見ると5機ほど待機していて、数分おきに次々と飛び立ってい
るのが見えた。
到着便の姿も見えていて、遠くに赤いランプが同じ方角に見えて、それがどんどん近づき次々に着陸している。
ようやく離陸した機体は右に左にと何度か旋回してから少しづつ上昇して、しばらくすると雲間に入ったのか街の明かり
は完全に見えなくなってしまった。
シートベルト着用のサインが消えると、周りでは一斉に弁当などを食べ始める人が多かったが、私達は飲物サービスが始まるまで待つことにする。CAさんも食事をしている人を見て見ぬ振りなのか、それほどたくさんの人たちが夕食を食べていて、機内は弁当の香りというよりは匂いがすごかった。
18時半過ぎに飲物サービスが始まったので、二人ともスープをもらってようやく食事にありつけた。
いなりセットは赤飯、おこわ、栗ご飯などどれも美味しくて、羽田空港限定販売の味めぐり弁当の方も全国各地の厳選食材を集めて作ったという、弁当にしては美味しい夕食となった。
食事が済むと到着まで30分足らずとなり、スープのお代わりを飲み終わった頃には、あと15分ほどでシートベルト着用のサインが点きますとのこと。
高度を下げ始めると雲に包まれて何も見えなくなり、しばらくすると眼下に街の明か
りが見え始め、それが次第にはっきりとしてくる。
旭川市内上空を通過する際は、場所を特定できるほど低く飛ぶので、周囲の乗客も「あれは○○だ!」と断定した話し
方をしていた人も多いようだった。
そして街の明かりが少なくなってきてすぐにタッチダウン、19時38分だった。
荷物が出てくるのには時間がかかるので、妻に任せて私は駐車場へ。
雪はなく、予想していた除雪の心配もなく、エンジンを温めて空港の前に車を停めると、すぐに妻がやってきたので荷物
を積み込み出発、長くも短くもあった沖縄旅行が終った。

おわり 


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