首里城公園・国際通りなど



  ● 首里城公園

11月24日 8時半の出発が続いていたが、この日は9時だったので6時40分に起きた。まだ薄暗いラナイに出て、一服
してからコーヒーを入れる。コーヒーの香りに誘われて妻も目覚め、私はシャワーを浴びる。
7時半に部屋を出て、中央にある遠いほうのエレベーターを待っていると、混雑しているようでなかなかやって来ず、ようやく13階のラファールに着いたのだが、満席だったので用意された別の部屋で待つことになった。
夜にはバーになる部屋らしく眺めは大変良くて、サービスにコーヒーも出してくれたが不味かった。
さほど待たずに案内され、バイキング方式だったので料理が並んでいる近くに席を取ることにする。
メニューも多めで味も良かったのだが、大皿の周りにこぼれ 

遠くには海も見える
落ちている料理が多く、係員が忙しそうなのは仕方ないが少々不衛生にみえる。味噌汁は相変わらずで、ソーキそば
は見た目どおり不味かった。それにしてもソーキソバってこんなものなのか?
食事が済んでエレベーターを待っていると、やっぱりなかなか来ない・・・。出発時間まで10分しかないという女性たちが
騒いでいたが、これはエレベーターのせいではないだろう。
出発時間が30分遅いだけで余裕があり、それでも8時45分には部屋を出て、清算を済ませてバスを探すと、たくさんの
ホテルの人たちがバスの前に並んで見送りをしていた。
9時にホテルを出発して、御菓子御殿本店の前を通るときにもまだホテルの人たちは手を振っていた。
バスは嘉手納、北谷を通り高速道路から那覇市内に入り、密集した街の中を首里城公園へと向かい、公園駐車場の建物の中に入って地下1階で下車する。
駐車場からの出口は修学旅行生でごった返していて、ガイドさんの先導に緩やかな坂を進んで行くと、その先には守礼の門が見えていた。
守礼の門を前にして、記念撮影がありこれが今回の旅行中最後となる。
先に修学旅行生が記念撮影をしていたが、大勢の生徒なのでなかなかスムーズには進まず、このままでは私達を長い時
間待たせてしまうと判断して、途中で私達の撮影をすることになり、1分もかからずに私達の撮影は済んだ。
守礼の門は想像していたよりは小さく、公園内は広くてじっくり見ている暇はないと思っていたので、撮影に忙しくてガイ
ドさんの説明もそこそこに簡単に見てしまった。
「守礼(しゅれい)」は「礼節を守る」という意味で、門に掲げられている扁額には「しゅれいのくに」と書かれている。「琉
球は礼節を重んずる国である」という意味とのこと。
首里城は石垣と城門の多い城であるが、中でもデザイン上バランスがとれていてエレガントな雰囲気のある代表的な
門がこの「守礼門」である。中国風の牌楼(ぱいろう)という形式で建立されているそうだ。

          
             守礼の門                            園比屋武御嶽石門
この先、道路を横断してから城郭に入っていくが、その前に世界遺産の「園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしも
ん)」がある。
琉球石灰岩で造られた建造物で、国王が外出するときに安全祈願をした礼拝所である。形は門になっているが人が通
る門ではなく、いわば神への礼拝の門ともいうべき場所である。
門の上部に掛けられている扁額の内容から1519年、尚真王(しょうしんおう)代に建てられたことが判明していて、八重
山の竹富島出身の西塘(にしとう)という役人が築造したものと伝えられる。
琉球の石造建造物の代表的なものであり、1933年に国宝に指定されたが、沖縄戦で一部破壊され、1957年に復元さ
れ、現在は国指定重要文化財となっている。また2000年には世界遺産へ登録された。
ここは帰りにゆっくり見ることにして先へと進む。
石段が傾斜になっているので上りにくく、足元に気を取られているうちに歓会門(かんかいもん)を見上げる位置にい
た。
        
               歓会門                                瑞泉門
首里城の城郭内へ入る第一の正門で、「歓会」とは歓迎するという意味で、往時、首里城へは中国皇帝の使者「冊封
使(さっぽうし)」が招かれたが、こうした人々を歓迎するという意味でこの名が付けられた。
首里城は外郭(外側城郭)と内郭(内側城郭)により二重に囲まれているが、ここは外郭の最初の門で、別名「あまえ御
門(あまえうじょう)」ともいうそうである。「あまえ」とは琉球の古語で、「喜ばしいこと」を意味する。
創建は1477〜1500年頃で、沖縄戦で焼失したが、1974年に復元された。門は石のアーチ状の城門の上に木造の櫓
(やぐら)が載せてある。
ここからしばらく登りが少々きつくなるが、息が切れるほどではない。
そして、見晴らしが良くて市内を一望できる広い場所に出ると、その少し上方に瑞泉門(ずいせんもん)が見える。「瑞泉」とは「立派な、めでたい泉」という意味であり、門の手前右側にある湧水が「龍樋(りゅうひ)」と呼ばれ、それにちなんでこのように名付けられたそうである。
ここは第二の門で、別名「ひかわ御門(うじょう)」ともいう。「樋(ひ)」は川や泉から水を導く長い管、または溝、あるいは屋根の雨水を受けて地上に流す
装置(掛け樋)等のことをさす。一方、沖縄で井戸や泉のことをすべて川(カワまたはカー)と表現する。「ひかわ」とは、
こうした表現を合わせた言葉で、フィージャーガーとも発音する・・・うーん難しい。
創建は1470年頃、沖縄戦で焼失したが、1992年に復元された。
門の手前にある湧水は帰りにもう一度通ったときに知ったが、龍樋(りゅうひ)といわれ、龍の口から湧水が湧き出して
いることからそのように名付けられた。
この水は王宮の飲料水として使われていたそうである。また、中国皇帝からの使者・冊封使が琉球を訪れたとき、那覇
港近くにあった「天使館」という宿舎まで、毎日ここから水をはこんだといわれている。しかし今は「飲用はできません」と
書いてあった。

漏刻門
更に上って漏刻門(ろうこくもん)がある。「漏刻」とは中国語で「水時計」という意味である。ここは第三の門で、別名「かご居せ御門(うじょう)」ともいう。当時、身分の高い役人は駕籠(かご)にのって首里城へ登城したが、高官でも国王に敬意を表し、この場所で駕籠から下りたということからそのように呼ばれている。
創建は15世紀頃で、門の上の櫓(やぐら)に水槽を設置し、水が漏れる量で時間を計ったといわれている。時刻を測定すると係の役人がここで太鼓を叩き、それを聞いた別の役人が東(あがり)のアザナと西(いり)のアザナおよび右掖門(うえきもん)で同時に大鐘(おおがね)を打ち鳴らし、城内および城外
に時刻を知らせた。この「漏刻」の制度については、1456年の朝鮮の記録に「(琉球のそれは)我が国のものと何らか
わりない」と記されているそうである。 
最後の階段を上ると、大きな朱色の広福門(こうふくもん)がある。「広福」とは、「福を行き渡らせる」という意味であり、
広福門は別名「長御門(ながうじょう)」といい、第四の門である。
建物そのものが門の機能をもっており、この形式も首里城の城門の特徴である。
創建年は不明で、明治末期頃に撤去され、1992年に復元されたそうである。王府時代、この建物には神社仏閣を管理する「寺社座(じしゃざ)」と、士族の財産をめぐる争いを調停する「大与座(おおくみざ)」という役所が置かれていた。現在は券売所等として利用されている。 
広福門を抜けると「下之御庭(しちゃぬうなー)」という正殿の御庭へ入る前の広場があり、この先は有料になるので、ここで添乗員さんから入場券を受け取り、各自集合時間までの自由行動となる。
さっそく奉神門(ほうしんもん)を通り、正殿の前庭へ入る。この門は「神をう 

奉神門
やまう門」という意味で、首里城正殿のある「御庭(うなー)」へ入る最後の門である。1562年には石造欄干が完成したと
いう記録があることから創建はそれ以前で、その後1754年に中国の制に倣い改修した。
建物は明治末期頃に撤去されたが、1992年に外観が復元され、現在は公園管理のための施設として利用されてい
る。別名「君誇御門(きみほこりうじょう)」ともいい、向かって左側(北側)は「納殿(なでん)」で薬類・茶・煙草等の出納を
取り扱う部屋、右側(南側)は「君誇(きみほこり)」で城内の儀式のとき等に使われたそうである。
3つの門のうち中央は国王や中国からの冊封使等限られた身分の高い人だけが通れる門であり、それ以外の役人は
両側の門から入城したそうだ。もちろん今は中央から入ることができる。

首里城正殿
順路通りに進むと南殿・番所(ばんどころ)に入るが、ここは靴を脱いで渡されたビニール袋に入れて持ち歩き、写真・ビデオなどの撮影は禁止となる。
南殿は日本風の儀式が行われた所で、いずれも塗装を施したという記録がなく、また元々日本的な建築であるため着色はしていない。
現在は資料展示スペースとして利用されていて、王朝時代の、多くはない宝物や衣装などが展示されていた。
南殿は別名「南風御殿(はえのうどぅん)」とも呼ばれて、創建は1621〜27年といわれているが、発掘調査ではそれ以前の基壇(きだん)らしきものも発見されている。建物は二階建で、地形を利用して裏側にある「書院・鎖之間(さすのま)」等に通じていた。 
また、書院は国王が日常の政務を司る場であり、「鎖之間(さすのま)」は王子等が薩摩の賓客や友人たちを応接した
部屋である。
なお、番所の展示室中央に飾られている中国的な傘は、琉球では「御涼傘(うりゃんさん)」といい、もとは日傘から発生
したものだが、実際は国王や高貴な人が行幸するときの装飾用として使われたそうである。
順路はそのまま正殿へと続き、ここからは撮影が可能となる。
正殿は言うまでもなく首里城で最も中心的な建物である。木造の三階建で、一階は「下庫理(しちゃぐい)」と呼ばれ、主に国王自ら政治や儀式を執り行う場。二階は「大庫理(うふぐい)」と呼ばれ、国王と親族・女官らが儀式を行う場であった。三階は通気を目的とした屋根裏部屋である。
創建年は、復元に先立って実施された発掘調査から14世紀末頃とみられている。その後ほぼ同位置で数度の焼失・再建が繰り返され、現在の建物は18世紀初めに再建され、沖縄戦で焼失するまで残っていた正殿をモデルに1992年に復元したものである。
正殿の建築は、中国の宮廷建築と日本の建築様式を基本にしながら、琉球独特の意匠にまとめられている。
正面の石階段の両脇に龍の彫刻があるが、これを「大龍柱(だいりゅうちゅう)」という。 

正殿内部中央
手すりの奥にもう一対「小龍柱(しょうりゅうちゅう)」があり、その他柱や梁等にも龍の彫刻が多数施されている。龍は
国王の象徴であり、たくさんの龍が首里城には棲んでいる。
床にはガラス張りの床下が見える場所があり、ここを覘くとこの建物の土台となる古い積石が見え「これが世界遺産で
す・・・」と係員が説明してくれた。
正殿内部をゆっくりじっくり見たい気分だったが、修学旅行生のマナーが悪くて落ち着いて見られる状態ではなかった
ので、一通り見るとすぐに外に出た。
次は南殿の向かい側にある北殿で、基本的には王府の中央行政庁であった。南殿で日本風の儀式が行われたのに
対し、ここでは中国的な儀式が行われた。
また、日本の江戸時代末期、アメリカ海軍のペリー提督ひきいる黒船が4隻、現在の神奈川県浦賀(うらが)へやって
きたが、艦隊はその前後数回にわたり琉球を訪れている。そのとき、ここで歓迎の式典が行われたことが知られてい
る。

往時の模型
  北殿は別名「北の御殿(にしのうどぅん)」とも呼ばれ、創建は1506〜1521年頃とみられている。王府の中央行政庁として、平常は大勢の官人が出入し、首里城の中で最も活気のある館であった。
また、何十年かに一度、国王が交替するとき琉球を訪れた中国皇帝の使者・冊封使を接待する場所として使用された。そのときは御庭に仮設舞台が設けられ、冊封使は北殿からその舞台で演じられる芸能を堪能した。
琉球には「組踊」という独特の古典楽劇がある。その創始者玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)による組踊が、首里城で初めて演じられたのは1719年のことであり、もともと冊封使を接待するために創作されたと言われている。 
中央大広間には冊封使の書による「こうゆうえんくん」の扁額(へんがく)が掛けられていた。現在は往時にちなんで琉
球王国の行政に関する展示や冊封使関係の展示をしていて、出口近くには売店もあった。
北殿と正殿の間に出口があり、ここから階段を下りると右掖(うえき)門があり、門を出ると城郭の下づたいに長い石段
が続いていた。
ここは国王やその家族が暮す「御内原(おうちばら)」へと続いている。しばらく石畳を下っていたが、妻が首里城スタンプラリーをしていたために押し忘れ場所があり、引き返すことに・・・。
再び正殿前の御庭を通り、奉神門を抜けて下之御庭へ出ると「首里森御嶽(すいむいうたき)」がある。城壁の手前にある礼拝所を首里森御嶽といいい、「琉球開闢(かいびゃく)神話」によれば、神が造られた聖地であるとされていいて、城内にはここを含めて「十嶽(とたけ)」と呼ばれる10ヶ所の礼拝所があったといわれる。
琉球最古の歌謡集「おもろさうし」にも首里森御嶽に関する詩歌が多数登場し、これは1997年12月に復元されている。 

右掖門
歩き疲れてのどが渇いたので「系図座・用物座(けいずざ・ようもつざ)」に入って、お茶を買い休憩することに。

首里森御嶽
  系図座と用物座という役所があったこの建物は「系図座」は士族の家系図を管理していた役所、「用物座」は場内で使用する物品、資材等の管理を行った役所である。2000年に復元され、現在は休憩所と情報案内所として使用されている真新しい建物である。 
ここから来た道を引き返して、園比屋武御嶽石門をじっくり見てから木曳門(こびきもん)まで上ったものの、途中で引き返すことにする。
この門は、首里城の修復工事のときにのみ、資材の搬入口として使用されている門である。普段は石積によって封鎖され、数年に1度といった頻度で行われる工事のときだけそれを撤去して使用する。現在は車椅子等の進入通路として開放されている。 
数件の売店が並んだ先のベンチで一服してから、首里杜館(すいむいかん)に入ると冷房が効いていて涼しい。
首里杜館は首里城公園のインフォメーション・センター、また情報展示と休憩のための施設である。ここには、ロビー、
情報展示室、総合案内、レストラン、売店、駐車場等があり、首里城を訪れる人々のための見学する前に必要な予備
知識を提供することを目的としているそうだ。
売店などを見ているうちに集合時間も近づき、地下1階の駐車場へ降りてみると添乗員さんが迎えてくれて、バスへと
案内された。

バスは11時40分に予定通り動き出し、次の目的地へ。DFSギャラリア沖縄は、国内旅行にもかかわらず免税品の買
物ができる国内唯一の大型免税店である。
ただ、ブランド品に興味のない人には全く無駄な時間となる。昼食時間帯だったので、ここで昼食休憩をとるのもよいの
だが、多くの人は次に行く牧志公設市場内での昼食を楽しみにしていたようだ。

i       
          DFSギャラリア沖縄                         フードコロシアム
店内をゆっくりと歩いて一回りしてから、3階のフードコロシアムという大げさな名前の場所に行ってみた。
ここは様々な飲食店が10店舗ほど集まり、食後エスカレーター前の出口で会計をするシステムとなっていて、いろいろ
な味を楽しめるようだが価格が随分と高い!
昼食前なのでモカアイスとケーキを食べて時間をつぶしてから、バスの待つ地階に降りて行くと、すでに他のみなさんは
乗車していたようだった。
もちろん、ここで免税品の買物をした人は空港内で搭乗前に商品を受け取ることになる。
バスの中でこれから行く国際通りや牧志公設市場の詳しい説明を聞いているうちに国際通りに入った。道が混雑しているせいもあり、国際通りは随分と長く感じた。
予備知識は全くなかったが、沖縄に来てから探し続けていた「海人(うみんちゅ)」ブランドのシャツがここにはあるかもしれない・・そんな期待をしながら賑やかな通りを見ていた。
バスは県庁前に停車して全員が下車し、添乗員さんの誘導に従ってバスで来た道を引き返すように歩く。23名全員に目をやりながらの誘導だから添乗員さんは大変だ。
それでも15分ほど歩いただろうか、右折してすぐに牧志公設市               牧志公設市場
場に到着し、そこの2階にエスカレーターで上って解散し、各自昼食タイムとなった。
10軒以上はあっただろうか、一通りぐるっと見て回ってから「沖縄料理と海鮮料理の次郎坊」で食べることにした。
注文したのは海鮮セットメニューから「かに汁とグルクンのから揚げ」と「五目チャーハン」だった。かに汁はワタリガニ
のようなカニが一パイ丸ごと入っていてダシがでて美味しかったが、沖縄の家庭料理というグルクンのから揚げは「うま
い!」と言えるものではなかった。

  
           2階食堂街               豊富なメニュー             今回の食事
ほぼ満腹になって1階に降りてみると、新鮮でカラフルな色の魚、肉は特に有名なのが「ミミガー」という豚の耳を干した
もので、ほとんどが顔の皮丸ごと真空パックされていた。他にも様々な食べ物が狭い通路に迫ってくるほど満載され、
ここに来れば何でも揃う那覇市の台所といったところか。

    

再び国際通りへ出て「海人」の店を探すことにする。海人は登録商標された商品名のメーカーだが、いわゆる偽物が多
いらしく、海人SUPERとか海人の国などの似通った商品もいたるところで販売されているので実に紛らわしい。
さきほどバスの車内から目をつけていた店があったので中へ入ってみると、店の一番奥に登録商標が額に入れて貼っ
てあったので、この店に間違いないと思った。
      
          お目当ての店               沖縄屋前           文化屋雑貨店の姉妹店?
3日目にしてようやくお目当てのシャツを購入して満足し、「もう国際通りに用はない」くらいの気持ちになり、県庁に向
かってぶらぶらと見て歩いて、10分前にはバスに戻った。
15時20分に出発したバスは那覇市内を離れて宜野湾市から北中城村へ入り、モーテル街を通り抜けた小高い丘の上
にこの夜宿泊するホテルがあった。
2005年9月開業の「EMホテルコスタビスタ沖縄」は、築30年以上というホテルをEMの力で再生させたという、見た目に
は新築のホテルである。
この「EM」というのは有機微生物群のことらしいが、(Effective Microorganisms)の略で、人間にとってよい働きをする
乳酸菌や酵母、光合成細菌など自然界に存在する微生物を複合培養したものという、さっぱりわからないが何か体に
良さそう・・・。 
        

真新しくきれいなロビーから部屋に入ってみると、こちらも実に清潔で、部屋からの眺望も良い。
さあ一服・・・灰皿がない・・・・・どうやら禁煙ルームらしく、後から添乗員さんに聞いてみると、全館禁煙だった。
気を取り直して館内の探索をしてみることに・・・ここは付帯施設としてEMスパ・コラゾン沖縄があり、大浴場・サウナ・岩
盤浴・リラックスルームなどのほかにトリートメントルームや健康相談コーナーまである。
売店は健康志向の商品ばかりだったので、ゴーヤチップス・オリオンビールなどを買い、もう一つの売店に行ってみる
と、こちらはさらに高価な食品やワインが売られていた。

       
部屋に戻ると外には美しい夕景が広がっていて、街の明かりもきらめきはじめていっそう美しい。
夕食は洋食と和食のどちらかを選ぶのだが、懐石料理と聞いたので和食を食べてみることにする。18時15分、1階の
「花風(はなふ)」へ入ると椅子席へ案内された。飲物はもちろん生ビールを注文する。
生ビールが出てくるまでに時間がかかったが、料理はもっと遅くて、一品目が運ばれるまでに部屋を出てから30分近く
も経過していたほどだった。しかし、料理はどれも美味しくて量もちょうど良かった。
一品一品運ばれてくる時間が遅いので、食事を終えたのは20時を過ぎていた。
部屋に戻り、再びラナイに出てみると、すっかり暗くなった空に変わって街の明かりが主役となっていて、所々に電照菊
の明かりが規則正しく煌々と光っているのが見えていた。
このホテルは石鹸やシャンプーなども自然な体に良いものを使っていて、シャンプーは香料など一切使っていないので
香りは悪く、目に入ると痛い。手洗い石鹸も妙な匂いがするほどだったので、なかなか馴染めなかった。
23時半には横になり、歩き疲れたせいかすぐに眠ることができた。

五日目 へ 


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