4日目 佐保・佐紀路



11月18日 6時31分の目覚しで起き、いつものようにコーヒーを入れているうちにKさんが目覚める。
7時にはビルの間から昇る朝日が眩しく、この日も天気は好さそうだった。

          

7時15分に部屋を出て1階の朝食バイキングに行くと、昨日とは料理の配置が違っていて客も随分少ない。
しかし料理内容は変化がなく、結局同じような料理を皿に持っている自分がいた。

大和西大寺駅のレンタサイクル
30分ほどで食事を済ませて部屋に戻り、8時36分にはホテル前を出発した。
近鉄奈良駅には8時40分過ぎには着いていたが、ホームに電車が入っていたものの出発時間は8時56分だったので待ち時間が長い。
ようやく動き出した電車は大和西大寺に停車して、ここでこの日の鉄道の旅は終了となる。
大和西大寺駅はその名のとおり西大寺が近くにあるが、数年前に拝観していたので今回は南出口から出る。
昨日に続いてこの日もレンタサイクルを利用して、効率的に拝観して回る計画だった。
奈良交通グループのレンタサイクルで、駅の出口からすぐ近い場所にあった。手続を済ませて出発するが、奈良市内なので昨日よりも
交通量が多いために注意は怠れない。
少し走ってからコンビニに寄ってお茶とドリンクを買って、一息に飲んでから再出発。
どの道も曲がったり細くなったりと北海道には滅多にない道で、途中で近所の人に道を尋ねながらたどり着いたのが「秋篠寺」だった。
住宅街のばずれの閑静な森の入口に門がある、といった風情のある寺だった。
この南門から入ると寺巡りを一人でしているという老人と一緒になり、話をしながら小砂利が敷き詰められた木々に囲まれた参道を歩き、金堂跡を過ぎると受付があり拝観料の500円を支払って中に入る。
入って左側にある大元堂は工事中で電機カンナなどの音が騒がしかったが、右側には今回見たかった本堂があっ
た。
        
                                             国宝の秋篠寺本堂
小砂利が贅沢に敷き詰められた広い境内に、大きくはない本堂だが新薬師寺のような佇まいの美しい建物だった。
国宝に指定されている本堂は平安時代末期の戦火のために消失したが、鎌倉時代に元の講堂の跡に再建されたもの
である。
白壁の塀に囲まれた境内に色付いた赤や黄色の紅葉が絶妙の色使いでアクセントをつけていて、どこから見ても本堂の美しさは際立つ。

本堂
秋篠寺は奈良時代末期の780年頃、光仁天皇の勅願によって建立され、開山は善珠僧正と伝えられている。
平城京西北の外れ「秋篠」の地に建てられたためにこう呼ばれている。
平安時代の末期の

本堂前庭
戦火で伽藍の大部分が消失し、鎌倉時代になって部分的な再興がされるが、金堂や東西の両塔の跡は雑木林になっ

伎芸天
てしまっている。
しばらくは本堂外観を眺めてから、中に入ってみる。
薄暗く古い柱や黒ずんだ堂内だが、仏像たちにはそれぞれスポットライトが照射されていて、他の寺院のように暗くてぼんやりとしか見えないなどということはない。
しかも、かなり近くから仏像に手が届くほどの距離で見ることができるのである。
仏像は入口のある左から「五大力菩薩」「伎芸天」「地蔵菩薩」「十二神将」「月光菩薩」本尊の「薬師如来」「日光菩薩」「十二神将」「不動明王」「帝釈天」「愛染明王」の順に並んでいた。
これらの仏像のほとんどが重要文化財の指定を受けていて、特に有名なのが「伎芸天」で、諸技諸芸の守護神として多くの芸術家や芸能人に慕われ、その造形の優美な写実性は古美術愛好家の間でも広く親しまれているそうだ。
じっくり拝観したところで外に出て、再度本堂を眺めると、軒には修理の跡だろう新しい木材が
いくつも見えていた。
他には見るところもないようなので、来た道を引き返して門を出る。
門外には秋篠寺鎮守社の八所御霊神社があり、ここは入口から眺めただけで通り過ぎた。

           
            八所御霊神社                             稱徳天皇高野陵
ここから幅2mほどの狭い道を下り、住宅街を抜けて街の中を走ると国道52号線に入り車が多くて不安になるも、他に
も自転車を利用している地元の人の乗り方を真似ているうちに慣れてしまった。
途中にあった「稱徳(孝謙重祚)天皇高野陵」があったので、入口から眺めて目的地に自転車を走らせる。
「平城宮跡」は広大な敷地にあるので何処をどう見ればよいのか下調べが悪くて迷ったが、平城宮跡資料館に入ってみることにする。
その前に「平城宮」について軽くおさらいしておくと、平城宮は710年から784年までの奈良時代の都で、広さは120万平方メートル余り、奈良県の県都である奈良市のほぼ中央に位置しているにもかかわらず、広々とした野原として保たれている。
東南隅にはには東院庭園、南端中央には朱雀門がそれぞれ復元されていて、西北隅には平城宮跡資料館、北端には遺構展示館が設けられている。
平城旧跡資料館に入ると係員がきてくれてこちらの都合の好い時間に合わせて解説をしてくれると言うので、さっそくお願いする。

平城宮跡資料館
資料館内部には発掘された遺跡ばかりではなく、発掘の様子や復元に至るまでジオラマが作られていて、初めての人
でもわかりやすく解説を聞くことができる。

           

1時間以上にわたって解説を聞いていたので腰が痛くなり、イスに座って少し休んでから再び自転車に乗った。
時間はすでに11時半過ぎだったのでのんびり宮跡を見ることはできず、広い宮跡のなかの小道を自転車で疾走して朱
雀門を探す。
少し行くと右手に「朱雀(すざく)門が見え始め、進行方向と並行して電車が走っていたので方角がわかるが、なかなか
近づくことはできなかった。

           

それでも自転車の力は徒歩とは比べものにならないほど早く、朱雀門が300mほどに近づいてくるともうすぐだった。
近鉄線の踏切を渡ると「兵部省」の跡が地面から1.2mの高さで切ったような状況で復元されていて、ここからは巨大な
  
朱雀門はもうすぐだった。
平城京の入り口である羅生門をくぐると、75mもの幅をもつ朱雀大路がまっすぐ北に向かって延びていて、その4km先には平城宮の正門である朱雀門が建っていたそうである。
朱雀門の前では外国使節の送迎を行ったり、時には大勢の人が集まって歌垣なども行われ、正月には天皇がこの門まで出向いて新年のお祝いをすることもあった。
朱雀門の左右には高さ6mの築地がめぐり、130haの広さの宮城をとりかこんでいた。朱雀門は衛士たちによって守られ、常時開いていたわけではなく、宮の正門としての権威とともにその勇姿を内外に誇示していたとおり、高さ22m、間口約25m、奥行き10mという巨大な

内側から
門であった。
私達が着いた場所は観光客で賑わっている反対側になり、警備員とボランティアガイドが数名いただけだったが、石段を上がってみるとその先には広くて長い朱雀大路の先に小さく見える観光バスや観光

外側から
客の姿が見えた。
朱雀門の脇にある小道を走り、国道1号線阪奈道に出てから左に進む。歩道があるので交通量が多くても安心して走ることができる。
そろそろお昼時だ
ったので、今回はチェーン店が多い関西の回転寿司を食べてみることにする。  
「くら寿司」は全品100円の回転寿司チェーンで、店内は全てボックス席だった。
各ボックスには液晶モニターがついていて、これを使って注文をするシステムで、注文をするとしばらくしてから専用の入れ物にのって注文品が流れてくる・・・注文者の近くに来るとピーピーとブザーで知らせてくれるシステムである。
もちろん注文品以外にも色々な寿司が流れている。珍しいものとしては「アンキモ」だったが、想像していた味とはやや食い違っていた。
色々食べてみてお腹は一杯になったが、北海道の回転寿司とはレベルが違いすぎる・・・回転寿司は北海道に限る!それが結論だった。
国道1号線を走って左に曲がると24号線になり、右手にはイトーヨーカドーが見えてくるが、ここにはガイドさんから聞い
た奇妙な話がある。
イトーヨーカドーの前はそごうデパートがあったのだが、このそごうがこの地に建設されるときにある問題があった。それは平城京の遺跡の発掘調査が済んでいなかったので、建設中止、或いは延期を巡っての裁判沙汰となった結果、そごうは勝利して無理矢理建設してしまった。
ご存知のようにそごうは破綻し、今はヨーカドーとなっているのは、無理に建設を進めた報いだと奈良の人々は話しているらしい。
地図上では次の目的地は簡単に見えるが、それはあくまで車で行く場合のことで、自転車では通れない道も多くて迷いそうになった。
「法華寺(じ)」は住宅街の真ん中にある閑静なお寺だった。
住宅街にしては広い駐車場内に自転車を停めて、通用門の「赤門」から中に入る。

             

右手に受付所があったが閉じていたのでそのまま通り過ぎると、左に鐘楼がある。周囲は小砂利が敷き詰められてい

法華寺本堂
て松を中心とした木々に囲まれるような庭園風の境内だった。
法華寺は、聖武天皇御願の日本総国分寺である東大寺に対して、光明皇后御願に成る日本総国分尼寺として創められた法華滅罪之寺である。
藤原不比等の邸宅だったのを皇后が先帝のために改めて伽藍としたもので、以来1200年余り、慈しみ深かった皇后の精神を伝え、道心堅固に守られてきた女人道場「法華寺御所」である。
本堂の前に立ち全体を眺めてみる・・・この時代特有の美しい甍が1200年の時を遡らせ、現代を忘れさせてくれるようだ。
ただし、この本堂は桃山時代に再建されたものである。
本堂に入ると入口で拝観料の700円を支払う。他にも「慈光殿」「名勝庭園」「華楽園」が公開されていたらしいが、11月10
日までとのこと・・・。
靴を脱いで本堂に入り、堂内の中心に座るとCDによる解説の声が聞こえてきた。
一通り聞いてからじっくりとみると、堂の大きさの割りに大きな仏像が多く、国宝の秘仏であり、光明皇后の姿をうつしたという「十一面観音立像」を模した白檀の像が美しく、係の人に聞くと秘仏はもっと黒いので模したこの像の方が美しいらしい。

十一面観音立像
左足に重心をかけ、右足の親指を立てて一歩踏み出そうとする姿で、肩にかかる垂髪とひるがえる天衣に風の動きが感じられる。一瞬の動きを封じ込めたような名作といわれるのもうなずける。
もう一つの法華寺の国宝「阿弥陀三尊及び童子像」は奈良国立博物館にあるらしい。
堂内にはこの寺にまつわる仏像、仏頭など数点が安置されていて、しばし係員に話を聞きながら由縁を聞く。
薄暗い堂内を出ると外は陽の光
がまぶしく、現代に戻ってきた気分になる。
私達が法華寺にいる間は他の拝観客もなく、駐車場から出てもその道では車に遇うこともなかった。
次の「海龍王寺」はすぐに見つかったが、入口がわかりにくく、駐車場は狭かった。もちろん、自転車なので一向に構わ
ない。   

風情がある門
古びた塀に囲まれ、門は小さくてみすぼらしい。門の外から見えた境内も枯れかけた植物に覆い尽くされるように見えるせいか、人がい

西金堂
るような気がしなかった。
築地塀といわれる壁はいかにも奈良らしく、この寂れたような風情を好む人たちに愛されているそうだ。
門を抜けると左側の小さな小屋のような建物が受付で、
ここで拝観料400円を支払い先へ進む。植物に覆われているので幅は1.5mほどだろうか、その先に本堂と西金堂があ
った。
海龍王寺は、飛鳥時代に毘沙門天を本尊として建てられた

海龍王寺本堂

国宝の五重塔
寺院を、731年に光明皇后により海流王寺として改めて創建された寺院である。
嵐の中、唐より無事に帰国を果たした玄ムが初代住持となったことから、遣唐使の航海安全祈願を営むと同時に平城宮内道場の役割を果たすことにもなり、玄ムが唐より持ち帰った経典の写経
も盛んに行われた。
正面に見えたのは「西金堂」で、創建時代からの建物である。何度か大きな修理を受けてはいるものの、一部に奈良
時代の木材を残しており、規模や形式に大きな変更もなく、奈良時代に造られた小規模の堂はこの西金堂以外に現存
していないことから、非常に価値の高いものと評価されている。西金堂内部には国宝の「五重小塔」が創建当時から安
置されていて、細部に天平時代のかなり早い時期の手法を用いて造られている。
天平時代の建築技法を現在に伝え建築様式の発展をたどる上にも重要である事と、建造物としての天平時代の五重塔はこれ1基しか現存していない事からも、この小塔の価値は高く国宝に指定されている。
そして右には「本堂」があり、奈良時代に建っていた中金堂の位置を踏襲しており、江戸時代の建物であるが奈良時代の仏堂の様式に似ている点が多く、古い伝統建築の様式が好まれた奈良の地域性をみることができて貴重である。
本堂内部に入ると、本尊の「十一面観音立像」がある。
光明皇后が自ら刻まれた十一面観音立像をもとに彫られたものであり、精巧入念な作で、頭、体のプロポーション、十部の自然な俯(うつむ)きに優しい手の動き、腰のひねりに巧みに応じる右足の遊ばせ方など、彫刻としての基本的なデッサンは確かなものがあり、彩色ではなく切金を主に多用した美しい仏像である。

十一面観音立像
但し、この切金細工は厨子に入れられているために、暗くてはっきりとは見えなかった。  
堂内の内部奥まで入ることができたので、中央部には「四海安穏祈願」の8つの水が入ったガラスの容器が置かれていた。
この海龍王寺は、日常の維持管理に関する自治体からの補助が一切ないので、全て拝観料収入で行なっている。
本堂や他の文化財も解体修理に迫られているが、経済的な事情から実施できずにいるので、保存して後世に伝えていくためにも多くの方に訪れて欲しいとのことだった。
海龍王寺を出て104号線から44号線に変わる24号線と交差する交差点まで来て、この交差点は自転車でどう渡るのだろうと思っていたところ、歩道橋は自転車でも渡れる平坦な坂になっていた。
歩道橋を渡り左に曲がり道なりに直進すると「不退寺」の南門が見
えてきた。
門を潜って入口左にある受付で拝観料の400円を支払い中に入った。この寺も海龍王寺のように植物に覆い尽くされ
たような印象で、右には大きくはない池があり工事中なのか電気工作機の音がしていた。

        
                                                  本堂から門
お腹の調子が悪かったので、本道の裏にあるトイレを借りてから本堂前に来ると「どうぞ、中へ」と呼ばれる。
早速入ってみると、薄暗いだろうと思った堂内は障子の格子から入る光が柔らかく堂内を照らしていた。
すぐに解説がはじまったが、なんだか早口で何を言っているのかわかりにくい・・・。毎日同じ話をしてるので面倒になっ
てしまったのか?困ったおじいさん解説者だった。
         
                                                 不退寺本堂
不退寺は、寺というよりは平安朝の貴族住宅を偲ばせる佇まいで、王朝風の優美さにあふれている。
平安遷都ののち、平城京をなつかしむ平城天皇は上皇として都を再び平城京に戻すことを画策したが成功せず、都を
逃れてこの地に萱御所を営んだ。
上皇の崩御後は、皇子阿保親王と在原業平が後を引き縦ぎ、847年に業平自らが聖観音像を刻んで当寺を開基したのが始まりとされ、別名「業平寺」とも呼ばれている。
本堂は大仏様式の最後の形を保ち、室町時代の建築とされている。
堂内にある本尊木造聖観音立像は業平の作と伝えられ、藤原時代の一木造、彩 色の像である。
庫裏の庭には長さが2.7mの大きな石棺があり、これは平塚古墳から発掘し運ばれたものと考えられているが、草刈の人たちであろう鎌を研いだ跡が痛々しい。
門を出て出発しようとしたが地図を忘れたので道がよくわからず、たぶんあっちだろうと働いた「感」で出発する。
ところがこの感が間違っていて、行けども行けども案内板はなく、住宅街の坂道は過酷で長かった。
ようやく住宅街を抜けると、かつてはテーマパークだったのだろう巨大な敷地内に遊戯施設が見えるも、うっそうと伸びた植物に覆いつくされそうになった成れの果てだった。
ここからは下り坂だったので楽に幹線道路に出て、携帯電話のナビ機能で何となく方角を把握して次の目的地近くまで近づくことができる。
近所の人に聞くと親切に案内してくれて「興福院(こんぶいん)」に着いた。
しかし、興福院は入口には衝立、受付も閉まっていたことを見て思い出した・・・。予め拝観受付を連絡しておかねば拝観はできなかったのである。
やむなく外観を見るのみでこの場を立ち去ることとなった。

          
                                                 門から中を伺う
椿や皐の名所として知られ、奈良で最も美しい寺といわれるだけに残念だった。
再び近所にいた親子連れの若奥さんに道を訪ね、そのなかでも分かりやすい道を選んでみる。
途中にあったスーパーマーケットに寄って富有柿と千枚漬を買ってから出発。

             

教えて頂いたとおり進むと「やすらぎの道」に出て、この道を真っ直ぐ
に行くと近鉄奈良駅に続いているようだ。
駅に近づくにつれて車も人も多くなったが、自転車でもさほど走りに影響もなく奈良自転車センターに着いたのが15時40分だった。
すっかり冷え切った体を温めるために「CAFE Rococo」という商店街にある喫茶店に入った。
レジで好きなケーキとコーヒーのセットメニューを注文して、その場で受取り好きな席に着く。しかし、その席は便所臭かったので入口に近い新鮮な空気が入る場所に移動する。
冷えた体に温かいコーヒーと甘いケーキが美味しかった。
時間に余裕があったので、次は「VIVRE」に入りKさんの手袋を購入し、最上階の雑貨店で入浴剤も購入。
ついでに私の上着も探してみるが、なかなか気に入ったものがなく諦めることにした。
すでに時間は17時を過ぎていたので夕食を食べることにした。
目的の居酒屋の地図は携帯電話に登録してあったが、ちょっとした勘違いからJR奈良駅まできてしまい、間違いに気付いて再度調べて引き返すと、何のことはない3条通りにその店はあったのである。  
創作居酒屋「KI・CHI・RI」は、近代的な店内のなかにも温かなくつろぎときめ細やかなもてなしの店である。
小上がりに案内され、先に生ビールを注文してメニューを見る。初日に食べ過ぎて胸やけに苦しんだので品数の少ない「花コース」を注文する。
最初に出されたのは角切りにした蒸しサツマイモで、これはお通しである。
前菜は、とろ鮭・いくら・ホタテ貝柱の北海カルパッチョで、大好きなカルパッチョだけに目にも鮮やかな一品は美味だっ
た。
次は、京とうふ藤野 牛蒡・蓮根・お豆冨の金胡麻サラダで、自分で擂った胡麻の香ばしさが好い。

  

そして、総料理長自慢の特製ローストビーフが運ばれる。柔らかくて肉汁が噛むほどに染み出すこの味はどこかで・・・
そう、札幌のハーフダイムのローストビーフのような柔らかさがあった。これは美味い!
さらに、若鶏せせり身の塩唐揚げがきた。細身の鶏肉がからっと揚がっていて、塩加減も丁度好い。
ここまでくるとお腹も膨れてくるが、まだご飯物が残っていて、北海蟹甲羅寿司が運ばれる。甲羅に入った酢飯の上に蟹身とイクラが適度な量でお腹を満たしてくれて、椛が添えてあるのが心憎い。
最後は、季節のデザートで、ラ・フランスのシャーベットが日本茶とともに出された。意外に量が多かったのでKさんは食べ切れなかった。
店を出たのが19時過ぎで、そのままホテルに直行して部屋に戻った。
千枚漬と柿の葉寿司で軽く一杯やってからテレビを観ていると、皮肉にも聖徳太子伝説はウソだったなどという番組だったが、意外と冷静に観ていた自分がいた。
一旦早目に寝るも、夜中の2時に目が覚めて寝くれなくなりビールを1缶飲んでから横になった。



五日目へ → 


戻る
戻る